トランプ大統領にそっくり、100年前の「アメリカ・ファースト」…その時日本の対応は
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昭和なら100年にあたる今年の「昭和の日」が、大型連休とともにやってきた。だが、今年は多くの人が、のんびり昭和レトロ気分を楽しむどころではなさそうだ。「アメリカ・ファースト」を掲げるトランプ米大統領が、太平洋に巨大な「関税の壁」をつくり、期限を切って日本にディール(取引)に応じるよう求めているからだ。

すでに日本から輸出する自動車や鉄鋼には25%、その他の輸出品に10%の関税をかけられ、7月上旬までに対米貿易黒字を減らす妙案が出せなければ、その他の関税がさらに14%上乗せされるという。
高関税をふっかけられたのは日本だけではないが、日本はディール相手の先頭に“指名”されている。赤沢経済再生相は大型連休の狭間に訪米し、2度目の交渉に臨むというから、霞が関は連休返上だろう。株や為替はトランプ大統領のひと言で乱高下し、しかも大統領の言うことはころころ変わるから、市場関係者は気が気ではない。

「アメリカ・ファースト」を掲げて外国をディールに引き込んだ大統領は、トランプ大統領が初めてではない。昭和100年の起点となる1925年を中心とした前後5年間で、米国はウッドロー・ウィルソン(1856~1924)の国際協調路線を捨て、米国第一主義へと政策を大転換している。その大転換を一気に進めたのは、共和党の上院議員から第29代大統領に就任したウォーレン・ハーディング(1865~1923)だった。
ハーディングによる政策の大転換は、戦前の日本の外交や政策にも少なからぬ影響を与えている。「日本史」の領域からははみ出すが、今回は約100年前のアメリカ・ファーストの
「大統領らしい顔をしていた」だけで地滑り的勝利?

第1次世界大戦に参戦して戦勝国になった米国では、ウィルソンがパリ講和会議を主導し、国際連盟を設立するなどグローバリズムを推進し、戦後の世界の新秩序をつくりあげつつあったが、ウィルソンは遊説中に倒れて引退を余儀なくされる。ハーディングは後任を決める大統領選で地滑り的に勝利し、ほぼ無名のまま大統領の座を射止めた。
もともとは小さな地方新聞社の経営者で、上院議員としての目立った実績もなかったハーディングが共和党の大統領候補になったのは、党内対立による足の引っ張り合いで有力候補が相次いで立候補を断念したため。経済学者の林敏彦(1943~2017)は著書『大恐慌のアメリカ』の中で、「彼の大統領候補としての資格は、『大統領らしい顔をしていた』ということだけであった」と記している。
ただ、ハーディングは、元学者のウィルソンが掲げてきた理想主義に国民がうんざりしつつあることを見抜いていた。大統領選挙で訴えた「アメリカ・ファースト」というスローガンは、グローバリズムより自身の暮らしの方が大切だ、と考える有権者の気持ちをつかんだ。
大統領に就任したハーディングは、矢継ぎ早にウィルソンの路線を否定していく。国際連盟に加盟しないと明言し、移民割当法を成立させて米国への移民を制限した。緊急関税法で小麦やトウモロコシ、肉などに高率の関税をかけて農家を保護し、フォードニー・マッカンバー関税法で工業品も保護対象に加えた上で、平均関税率を約38%に引き上げた。
ちなみに関税を大幅に引き上げるフォードニー・マッカンバー関税法には、条件付きながら大統領に関税調整の権限を与える条項もあった。合衆国憲法が関税を調整する権限は議会にあると明記しているにもかかわらず、トランプ大統領が議会を通さずに関税を変えることができるのは、この時に空いた「アリの一穴」が広がった結果と見る向きもある。
グローバリズムに背を向けることは、他国の政策には関わらないということではなかった。ハーディングは第1次世界大戦に勝って債務国から債権国になった優越的地位を固めるため、外国とのディールには力を入れていく。米国の軍事支出を減らし、米国のアジア利権獲得の邪魔になる日英同盟を終わらせるため、ワシントン海軍軍縮会議の開催を申し出て日本と英国にディールを持ちかけたのだ。


政策とともに政治改革も進め、すさまじいスピードで小さな政府を作ろうとした。政府予算の縮小を目指して予算局を新設し、銀行家のチャールズ・ドーズ(1865~1951)を長官にすえて、国庫支出を一気に3割近くもカットした。歳出削減で浮いた経費は財務長官アンドリュー・メロン(1855~1937)が進めた減税の財源となったが、恩恵は大企業や富裕層に偏っていた。富裕層と閣僚の癒着は、ほどなく油田採掘をめぐる「ティーポット・ドーム疑獄」に発展する。

アメリカ・ファーストを掲げて
関税収入を財源に、富裕層に大減税

ティーポット・ドーム疑獄で逆風が吹き荒れる中、過労がたたってハーディングは就任から2年余りで急死する。後を引き継いだのは副大統領のカルビン・クーリッジ(1872~1933)。多くの主要閣僚は続投し、ハーディング路線はさらに大規模になっていく。
メロン財務長官は前回よりさらに大規模な減税計画をぶち上げたが、財源の大半はハーディング時代に引き上げた関税収入だった。相変わらず減税の対象は高所得者や企業に偏っていたが、大量生産が始まった自動車や家電製品が爆発的に普及して米国景気は急拡大し、問題点や矛盾を覆い隠した。
1929年の国民総生産(GNP)はハーディング政権初期の1921年から45%も増えた。株価は連日値を上げ、人々は「狂騒の時代」に酔っていた。1929年10月24日の「暗黒の木曜日」から始まる株価の大暴落まで、誰もが米国経済は強くなったと自信を深めていた。
それはクーリッジ大統領の後に大統領の座に就いたハーバート・フーバー(1874~1964)も同じだったようだ。ハーディング政権から商務長官を務めて米経済の繫栄を見てきたフーバーは、株価暴落が大恐慌につながるとは考えず、政府による経済への介入をためらい続けた。

議会の突き上げもあって、フーバーが約2万品目の関税を引き上げるスムート・ホーリー関税法に署名したことで、恐慌はますます深刻になる。平均40%という米国の高関税に対し、英、仏など欧州諸国は報復関税を発動し、世界貿易は3年間で3分の1に縮小した。大恐慌前の米国の好況は保護主義が生んだものではなく、狂騒はバブル(泡)に過ぎなかった。

ディールに乗った原敬の思惑は
この間、日本はどう対応したのか。関税の引き上げで日本の対米貿易額は減少し、特にスムート・ホーリー法の影響で昭和6年(1931年)には「暗黒の木曜日」が起きた昭和4年(1929年)より4割も減っている。各国がブロック経済を進める中、日本は昭和7年(1932年)に建国された満州国に台湾、朝鮮を加えた「円ブロック経済圏」をつくるが、不況は長期化し、経済ブロック間の経済摩擦は第2次世界大戦を引き起こす一因となった。

ワシントン軍縮会議開催の打診を受けた時の首相、原敬(1856~1921)は「神がハーディングの頭に宿って、このことを
原は自腹で米国を視察し、これから世界の覇者は英国から米国に移ると読んでいた。日本を抑え込み、アジアの利権を拡大したいという米国の思惑は承知の上で、米国の外圧を利用して軍事費を削減するため、ハーディングのディールに乗ったのだろう。もし原が暗殺されることがなければ、アメリカ・ファーストを利用して、あるいはうまくディールができていたかもしれない。